初めて前日光の大芦川に釣りに行ったのは高校1年の時だった。
その頃でもすでに奥多摩や丹沢、奥武蔵、秩父では魚がスレていて、容易には釣れなくなったと感じ始めていた。だが、東京、神奈川、埼玉より遠くへ釣りに出掛けるのは当時の自分達にはいささか冒険に思えた。
小学校の頃から大事に読んでいた飯田という人が書いたブル-ガイドブック、「渓流釣りの旅」を何度も読み返しながら、一大決心で大芦川に行くことを決めた。
浅草を昼に出て東武線で新鹿沼まで行き、そこからバスに揺られながら、ため息の出るような素晴らしい渓流を見つめて初めての遠出に胸がときめいたものだ。
同行したのはJ君とC君で2人共家が浅草だった。浅草と言えば、”石を投げればヤクザに当たる”と言われたほどヤクザが多く「仁義無き戦い」と言うヤクザ映画の大ヒットにより街もにわかに活気だっていた。
J君はともかくC君の方はすでに任侠の世界に生きる雰囲気が漂い、顔も高倉健に良く似ていてケンカも強かった。
自然を愛する渓流釣りを楽しむ位だから、彼とは純粋な気持ちで通じ合うものが有った。
・ノスタルジックな雰囲気に興奮
古峰神社宿坊へ到着し先に宿泊費を払うと、坊さんが部屋へ案内してくれた。
部屋と廊下には大小様々な天狗の面が飾られていて、その貫禄と厳粛な雰囲気に圧倒された。
ここ古峰神社は天狗の神様を奉っていて、宿泊客は希望すれば、翌朝座禅を組み祈祷を受けることが出来る。とは言っても殆どの人がそれを目的にここを訪れる。釣り人や登山客は旅行の思い出に座禅を組んでいく人が多いようだ。必死の思いで祈りに来ている人達の邪魔にならないようにしよう。
部屋も決まり釣り支度を急いでいると、いきなりお婆ちゃんが襖を開けて「だに!」と言うので驚いた。「え!ダニ?!」と聞き直すと「めしだに!」どうやら食事の時間らしい。
早い夕食と、近場の釣り場では聞いたことの無かった方言と、圧倒的に迫ってくる天狗のお面・・・。
私はノスタルジックな雰囲気にすっかり興奮していた。
「やっぱり旅行はいいよな~」
J君もご機嫌である。C君も感慨に浸っているのか口数が少なかった。
・急用
早い食事を済ますと、一斉に川に出た。日暮れまでに1時間有る。
エンテイのプ-ルを3人で狙った。トンボがいっぱい飛んでいたので、それを捕まえてエサにしたら途端に小型のヤマメが釣れだした。C君が型の良いヤマメを釣った。
3人でそのヤマメに見とれていると、突然C君が「俺、用事思い出した!」と叫んだ。
「え?!何の用事?」
「姉貴と今日約束があったんだ」
せっかく来たのだから、姉さんに電話して泊まっていくようにと言う二人の制止も全く聞こうともせず、その場から走り去ってしまった。
唖然としていた私は勝ち逃げされて、少し悔しいような寂しいような複雑な気分で彼の後ろ姿を見送った。
鈍感な私がC君の突然帰ることになった本当の理由が”天狗のお面が怖いから”と言う事実を知ったのは、それから何年も後のことである。.